東電OL殺人事件の真相とは?
[発生日]
1997年3月8日~9日
[時間]
深夜未明
[現場]
東京都渋谷区円山町の
喜寿荘1階
[被害者]
引用先>https://jijinetakansou.com/?p=1348
東電本社の
会社員
渡邉泰子さん(当時39歳)
[真相]
全ての
始まりは
発生から
10日後の
19日
午後17時30分頃
当時
東電本社に
勤務
していた
渡邉さんは
ネパール
料理店の
店長であり
現場の
アパート
オーナー
でもあった
ネパール人の
「ゴビンダ・プラサド・マイナリ」
さん
(当時30歳)の
アパート1階にて
オーナーが
第一発見者
として
通報
されたことで
その後
絞○死体
となり
発見された
ことでした!
引用先>https://www.asahi.com/articles/DA3S13224730.html
その後
約2ヶ月の
現場検証から
当時
被害者は
・バーバリーの
ベージュコートに
青のツーピース
という服装。
・下着に乱れは
なかった。
・長い髪の毛に
ボールペンが
絡まっていた。
・取っ手が
根元から
外れ
口が開いた
ショルダーバッグの
中に
財布の中に
現金473円、
未使用のコ○ドーム28個、
(東京電力本社・企画部
・経済調査室副長・渡邉泰子)
と書かれた名刺、
身長169cmの体重44kg
という
拒食症
になる
摂食障害
だった。
・トイレの
和式便器の
ブルーレット
水溶液内には
使用済の
コンドームに
精○が
入っていた。
・隣の
粕谷ビル401号室に
ネパール人の
仲間
4人と
不法滞在され
買春行為の
1人として
3回行っていた。
そんな
不審点から
浮上した
男こそ
その後
冤罪のような
無罪判決を
勝ち取る
ことになる
ゴビンダさんで
浮上した
理由は
家主から
「喜寿荘」の
管理を任され
前日には
101号室の
玄関脇の
小窓が
10cmほど
開いたままで
ドアノブは
鍵が
かかっておらず
開いたまま
さらに
靴が
一足だけ
綺麗に
揃えられ
ネパール人だと
思っては
「寝ている」
とも
感じていた
ことで
偽装工作と
疑い
5月20日
○盗○人容疑で
逮捕となり
判決では
2000年4月14日に
無罪が
言い渡され
4日後の
18日に
検察側が控訴、
12月22日
東京高等裁判所で
無期懲役が
言い渡され
2003年10月20日
最高裁で
上告が棄却され
有罪が確定、
2005年3月24日
東京高裁へ
再審請求を
申し立て
2011年
7月21日
弁護側が
最高裁へ
申し立てると
DNA鑑定を
していない
のみを
実施
することになり、
2012年6月7日
東京高裁で
再審が
認められ
7月31日
開始の判断を
したことで
検察の異議
申し立てを
棄却され
8月2日
東京高等検察庁は
最高裁への
特別抗告を
断念された
ことで
再審開始が確定
2012年10月29日
検察は
無罪を主張
され結審、
11月7日東京高裁で
無罪が
言い渡され
検察は
上訴権を
放棄され
無罪が確定し
12月末
ゴビンダ側から
刑事補償請求
された
ことで
2013年5月
補償額上限額
(1日当たり1万2500円)の
約6800円が
支払われた。
ちなみに
その後は
5月22日に
獄中日記を
まとめた
著書
「罠(わな)にかけられた15年」を
ネパール国内で
出版され
6月8日には
支援団体の
呼びかけ人
から
立ち上げた
法整備を
目標とした
「なくせ冤罪!市民評議会」の
設立総会が
開かれ
代表には
「無実のゴビンダさんを支える会」(解散)で
事務局長を
務めた
客野美喜子さん
(当時61歳)を
選出され
7月10日には
日本語版の
獄中日記
「ナラク ゴビンダ・マイナリ獄中記」を
日本で出版
され
4年後の
2017年に
再び
支援者の
呼びかけで
来日され
東京都
文京区センターで
開催された
「くりかえすな
冤罪!市民集会」に
出席され
そこでは
「日本は素晴らしい
国なのに、
冤罪の人が
たくさんいます。
二度と私のような
冤罪者を
作らないように
してほしい」と
語った
そうで
現在は
50歳になり
国籍の
ネパールで
結婚した
妻と2人の
子供と
暮らして
いるようで
これまで
お姉さんとも
暮らして
きたようです。
渡邉泰子さんの生い立ちとは!?
東京都
杉並区永福町で
日本女子大
出身の母親と
東京女子大
出身で
大手電器メーカーに
務めていた
妹の
3人暮らし
だったようで
父親は
東大出身の
長女と同じく
東電で
働いていたが
1977年7月に
50代で
病気のため
他界されて
しまいました。
そして
本人は
慶応大学経済学部を
卒業後
東電本社に
就職から
入社となり
その後は
エリート・ウーマン
といわれる
管理職で
至って
真面目に
働き
毎日
決まって
午後17時20分に
定時退社
しては
帰宅
という
生活を
してきたが
突然
1991年頃から
勤務後に
渋谷区円山町界隅
付近に
現れては
近くの
道玄坂の
ホテル街や
客と
待ち合わせから
風○
のような
買春活動を
していたそうで
そこでは
1日に客
4人から
お金を
受け取り
終電で帰宅を
毎日の
日課と
5年間
繰り返しては
1996年6月頃からは
品川区五反田の
SMクラブ
「マゾッ娘宅配便」で
働き
会社が
休日になる
土日や祭日の
午後12時30分
~
午後17時頃まで
事務室で
待機しては
同じような
活動もされ
その後
深夜まで
円山町界隅
での買春
その他
普通ではない
奇行として
路上での放○、
路上に
落ちていた
ビール瓶を
拾い
酒屋で1本5円に
換金、
その小銭で
百円玉~千円札~
一万円札
といった
逆両替、
ホテルで
大や小での
出入り禁止でも
再利用、
終電の中で
菓子パンを
食べる
などを
繰り返して
きたが
1年後の
1997年3月8日
~9日
未明に
かけて
何者
かにより
円山町の
「喜寿荘」の
1階にて
何者かによる
トラブルで
命を
落として
しまいました!
真犯人の正体や動機は….!?
17年現在も
真犯人
逮捕まで
いけず
未解決
となっている
「東電OL○人事件」
なのだが
実は
本当は
明かしては
かなり
まずい….
そんな
政府や
や○ざも
絡んで
いるような
陰謀説が
隠されて
いたとか。
それによると
原点は
父親にあり
当時
東電・工務部副部長
として
将来は
幹部でも
事業方針を
決められる
役員
候補の1人
だったが
その後
災害
などで
危険性
について
納得できず
指摘を
しては
最終的には
原発に
頼らない
クリーンエネルギーを
目指す
反原発
社員
だったが
その後
突然の
他界を
された
ことで
それを
引き継ぐため
優先的に
当時
幹部の
上司だった
取締役企画部長の
K(勝俣)から
将来
有望だから
是非頼む
と期待
されていた
ことで
入社後は
社員ながら
重要な
幹部の一つ
企画部調査課・副長で
他に
企画部管理課長の
F(藤原)、
O(大平)らと
国家経済と電力需要
といった
レポート
作成の
担当をされ
それは
かなり
正確な情報で
評価が
高かったと
されています。
しかし
泰子さん
までも
まさかの
反原発の
立場が
強く
政府に
提出する
ような
重要な
レポートに
危険性を
指摘する
内容ばかり
書かれて
いたことで
このままでは
国民全体の
生活環境が
悪化しては
責任に問われ
最終的に
辞任の可能性も
……..
そこで
何としても
自分たちの
これまで
やってきた
方針を
変えたくない
そして
あの
大事件は
起きたのだが
実は
現場の
渋谷区円山町界隅
という
巣鴨周辺は
当時
や○ざが
占領され
そこに
拠点といえる
事務所があり
そこで
裏で
雇われ
手も汚さず
何者かにより
命が
奪われたとか…..
引用先>https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14170424289
また
公式では
動機は
非公開だが
これが
本当であれば
役員の座を
奪われたくない
ことによる
恨みによる
犯行
だったのでは!?