谷口繁義(財田川事件)が真犯人(犯人)?経歴&中学や高校は?家族(妻・子供)や両親も!

谷口繁義さんの正体とは…!?

1950年2月28日

午後16時~18時の夕方ごろ

香川県三豊郡財田村(現 三豊市財田町)で

当時62歳男性が

現代で例えるなら

麻○や投資不正取引のような

受け子となる

仲介業者となり

闇米ブローカーで

生計を立てていたのだが

その後

自宅4階寝室で

強盗目的で侵入した

刃物男により

現金約2万円を奪われた末

30カ所以上刺され

用事で訪れた

知人により発見も

命を奪ったとされる

○人強盗容疑で逮捕も

その後

警察や裁判所による

捜査ミスから

証拠不十分で

釈放された

冤罪事件の

元被疑者であり

死刑囚だったといい

そこには

後に

裁判官から

弁護士へ転職した

矢野伊吉(やの いきち)

存在が大きかったといい

全ての始まりは

……..

そこから

1ヶ月後の

4月1日

隣接する

神田村の農業協同組合、事務所内にて

2人組強盗犯

谷口(当時19)らが

職員に全治2週間の

ケガを負わせ

4月3日に

強盗○人未遂容疑で

逮捕されたことで

キッカケは

聞き込み捜査から

2人は既に

地元では

「財田の鬼」という

不良青年として有名で

たびたび

住民に対し

嫌がらせ行為を

繰り返していた事で

その後

谷口は

懲役3年6月の

判決後の21日

もう1人は

アリバイが成立し

釈放も

谷口に関しては

言動と証拠に

大きな食い違いが生じ

中でも

犯行時に着用していたとする

国防色ズボンには

被害者と同じ

O型の血痕が微量に

付着していた事で

後に

当時

法医学界No1の

天才と称されていた

古畑種基(東大教授)の鑑定と

偽り

後輩にあたる

大学院生が担当し

被疑者の

遺留物は

弁護を通じ

鑑定の際に

勝手にシナリオを

作り上げた

ねつ造疑惑

だったにも関わらず

事情聴取は

約2ヶ月にも渡り

時には

手足を縛られた上

長時間の正座や

食事の軽減

などの

いつ命が

奪われてもおかしくない

激しい

拷問に耐えると

その後

黙秘から

否認するも

自白を

言い続け

本人のもと

手紙5通が

作成されたことで

その後

裁判手続き終了後の

1952年2月

香川県の

高松地裁丸亀支部で

全面否認するも

証拠が焦点となり

第一審で

死刑が確定

しかし

その後

谷口は改めて

警察がミスを犯し

証拠を改ざんした

作り物として

さらに詳しい経緯を

再捜査するよう

上訴も

4年後の

1956年6月に

高松高裁が

控訴棄却と下すと

1年後の

1957年1月

最高裁の二審で

上告を棄却し

死刑が確定

その後

死刑囚となり

執行手続きのため

大阪拘置所へ

移送され

再度

再審請求するも

1958年3月に棄却

しかし

ここから

一発逆転が

待っていたのだ….

それが

普通の流れなら

法務省による

最終確認のため

裁判所へ

捜査報告書や

供述調書など

加害者や被害者に関する

まとめた

重要書類が

丸亀支部に

保管されている

はずなのだが

検察へ

「公判不提出記録」の

送付を求めたところ

警察のミスを

隠すためなのか

粉失していたことが

判明すると

再度

1964年3月

丸亀支部へ

「国防色中古ズボン&微量血痕」に関し

再鑑定と再審請求の

手紙を送るも

しばらく

所内の書類棚に

4年間

誰にも気づかれぬまま

放置されていたが

1969年3月

当時

丸亀支部裁判長だった

矢野伊吉が発見

※引用>www.kawagawa-jinken.org/

その後

本人に

改めて

本当に

再審していいのか

尋ねたところ

はい!と応えたことから

受理し

50年ごろから

記された

裁判記録を

見返したところ

5通手紙の

文字の大きさや

書き方が

本人とは異なり

捜査官が偽造

さらに

自白調書にも

証拠内容の矛盾や

新たに

書き足したような跡

などの

疑惑に

気づいたことで

最終手続きとなる

本人や家族

捜査関係者へ

取り調べを行い

谷口は100%

無実で冤罪と確信後

谷口のためだけに

弁護士へ転職

その後

第二次再審請求も

1972年9月

丸亀支部

1974年12月

高松高裁が棄却

しかし

1976年10月12日

被疑者側の

自白を全く受け入れず

拷問してまで

強要するのは不自然で

無理があり

「審理不尽の違法がある」と

判断後

高松地裁へ

取り消し~再審請求を開始

1979年6月7日の決定後

1981年3月14日

検察側が

2度抗告を行うが

高裁が

不十分と

棄却されたことで

再審開始が正式決定

そして遂に

晴れて

釈放の日が…..

それは

1984年3月12日

高松高裁

・本人の証言と手紙の自白内容が不自然で改ざん跡がある

・被害者の腹巻に血痕がないのは不自然で

警察などに拭き取られた可能性がある

・当日まで所持していた国防色ズボンは家族以外の

赤の他人が着用していた中古で兄弟共用だった

・当日着用や微量血痕が当時のものとは捜査技術から

断定できない

など

被疑者証拠からの

否定物が焦点となった

ことが理由で

検察側には

偽造なしの

物的証拠が

全く

発見できなかった事で

判決では

「無罪」が確定….

その後

谷口さんは

34年の刑期を終え

53歳の時に釈放

その後

約7500万円の

刑事補償が支払われ

第二の人生は

香川県琴平町で

生活をしていたが

2005年7月26日

脳梗塞で

病院へ緊急搬送後

後遺症などで

74歳で

生涯を閉じました。

[プロフィール]

※引用>oreno-trend.biz/

名前>谷口繁義(たにぐち しげよし)

生年月日>1930年12月3日

年齢>74歳(享年)

出身>香川県

職業>無職

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真犯人は現在も逃走中で誰…!?

18年現在は

既に

法律改正の問題で

時効になり

犯人については

当時の

事件年表からして

亡くなっている

可能性が有力視

されており

その中でも

当時

第一発見者で

高知県の女性

自ら警察へ

通報せず

飲食店で働いていた

被害者の妻に

通報後

現場を

立ち去った

可能性から

怪しまれたり

もう1人

所在不明男性

警察の捜査により

第一発見者から

浮上

その他

最有力候補なのでしょうか?

事件直後から

判決確定まで

何らかの

内部機密情報漏れを恐れ

証拠隠滅目的で

隠し続けた

位が上に位置する

警察

あるいは

その親族か

身内による可能性

また

証拠隠滅とも思える

行動を

とるくらいなので

土地勘ありの

知人の

可能性が

かなり

高いのでは….

ちなみに..家族はどんな方?

両親のうち

妻に関しては

飲食店で

働いていたといい

さらに詳しい情報や

その他

関連については

18年5月24日放送の

「アンビリバボー」

紹介された場合のみ

追記します。

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