西沢裕司(犯人)について!
名前>西沢裕司
生年月日>1970年
年齢>28歳(1999年当時)
出身>東京都江戸川区小岩
職業>無職
学歴>武蔵高校(現 都立武蔵高等学校・付属中学校)/一橋大学
趣味>フライトシュミレーションゲーム
父親(特許事務所勤務)、母、祖母、
兄(東京工業大学卒・大手化学メーカー勤務)の
5人暮らしで育ち
正確は
元気に真面目に
すくすく伸び
幼稚園児までは
特にトラブルはなかったが
小学校へ進級後の
小学2、3年生の時に
いじめに遭うも
そこまで気にせず
勉学に関しては
成績優秀で
その努力が
中学と高校は
偏差値67の
武蔵高等学校
大学は
67.5の
一橋大学へ結びつき
2、3年の時には
生活費や学費を
払うため
羽田空港で
アルバイトを始め
将来は
航空会社へ
就職を希望も果たせず
卒業後の94年
24歳の時に
鉄道関係の
JR貨物へ入社後は
寮生活で
厳しい1年目を送るも
社内のルールが厳しく
コミュニケーションが
苦手で
希望の就職先とは
違い
ストレスを理由に
2年後の96年
26歳の時に
うつ病を発症後
自○目的に
逃亡を図るも絶てず
その後
所持金が厳しくなり
仕事を辞めると
実家での
生活を送りながら
精神科へ通いながら
転々と
職場を歩くも
長続きせず
ほぼ
自宅で趣味の
飛行機をテーマにした
フライトシュミレーションゲームで
引きこもりながら
ストレス解消生活を送ると
ある日
ネットで
羽田空港の警備体制情報のミスに
気付くと
全日空航空会社、運輪省(現 国交省)、東京空港署
など宛てに
「死角」の対策を見直しから
変更と共に
自身を
警備員として
採用するような
手紙を送付するも
一般人からの提案は
禁止と
全て断られると
やがて
「対策していないじゃないか」と
脅迫電話を送り
それでも
無視されると
社会へ報復を動機に
最初
1999年7月22日に
ハイジャックを計画も
天候不良から
翌日23日に延期を決定後
実行することに。
61便ハイジャック事件の真相とは!?
[発生日]
1999年7月23日(平成7年)
[時間]
午前11時23分ごろ
[機体]
全日本空輪ANA61便(B747-400D)
[場所]
東京国際空港・羽田国際空港(東京都大田区)
[加害者]
西沢裕司
[被害者]
長島直之さん(機長)1名
[動機]
同級生からのいじめや
職場関係先への不満からの報復
[真相]
当日
同機には
長島直之機長、古賀和幸副操縦士
キャビンアテンダントなど
乗員14人と共に
乗客503人の計517人が搭乗し
満席状態の多くは
夏休みも重なり
旅行客や家族連れなどで
羽田から約800km離れた
北海道千歳市の
新千歳空港を目指し
離陸も
2分後の午前25分ごろ
突然
西沢が
罵声を上げながら
席から立ちあがると
付近にいた
CAに包丁で騒いだら
命はないと脅すと
機長と副機長のいる
コックピットへ向かうような
指示を出すと
その後
機内や管制塔へ
「本機はハイジャックされています」という
緊急テロップが流れると
犯人は
再び
コックピットへ侵入後
南西方向ルートの
神奈川県横須賀市上空から
静岡県伊豆大島上空を
飛行するような指示を出すと
13分後の
午前11時38分
さらに興奮した犯人は
副操縦士や客室乗務員を
コックピットから
客室側へ移すと
扉を閉め
機長と2人状態にすると
7分後の
45分には
航空会社や政府に
対策本部が設置され
2分後の47分
目的の
横須賀東方向へ入り
その後
三浦半島から
相模湾上空を飛行すると
犯人は
進路を
一度
大島の南下コースから
横田基地へ変更し
機長に対しては
自分に
操縦をさせる
要求も
8分後の55分
ここで
機長は最後の
手段として
男の行動を
落ち着かせるような
言葉を発するが
それが逆効果に繋がり
直後
包丁で○すと
血だらけで
意識のない
機長を無視し
1人だけになった
男は
操縦席に座ると
ルートを北に変更すると
徐々に
機体は
神奈川県上空を
降下しながら
目的地の
横田基地上空に
調達後
急旋回し
今度は
南下や
さらなる
あわや
二次被害から
住宅街に突っ込み
テロを犯すような
急降下する
暴走行為を繰り返すうちに
地上まで
高度約200mに
調達したことで
テレイン
地上接近警告音がなり
危険を察知した
副操縦士と非番の機長
さらに
数名の
勇気ある
乗客の助けをかり
一か八かで
コックピットのドアを蹴り侵入後
それ以上の
ケガ人を出すことなく
午後12時10分
副操縦士から管制塔へ
「機長が○された
犯人を取り押さえた」という報告後
座席で
拘束後
副操縦士が
操縦席を握り
再度
高度を取り戻すと
16分後の
午後12時3分
副操縦士から
管制塔へ
機長の容態が報告されると
最終的に
11分後の14分
61便は
羽田空港へ
緊急着陸後
待機されていた
警官により
ハイジャック防止法違反容疑で
逮捕され
動機について
希望の就職先に就けず
「ジャンボ機を操縦してみたかった
レインボーブリッジをくぐりたかった
宙返りダッチロールをしてみたかった」と供述し
判決では
6年後の2005年3月23日
東京地裁で
一審・二審共に
無期懲役の有罪が確定後
刑務所で服役中生活を送り
一方の
機長は
既に
機内で
医師により
出血性ショックで
○亡が確認され
事件後
明らかにされたことは
前日の21日夜
空港に隣接する
東京都・浜松駅付近の
カプセルホテルに
「マツイ・サブロウ」で宿泊後
当日
男は
羽田空港カウンターで
61便の手続きを先に済ませ
それより先に
羽田発大阪伊丹行きの
日航101便に
当時
地下鉄サ○ン事件の
指名手配犯だった
元真理教信者の
「タカハシ・カツヤ」を名乗り
搭乗すると
その際
凶器は一度
X線透視検査装置で
確認後
事件性がないと
判断されると
一旦
目的地まで預け
その後
伊丹空港に到着後
午前8時50分発の
羽田行き
日航102便に搭乗後
再び
荷物を預け
その後
羽田空港に到着後
ロビー1階で
荷物を受け取り
2階出発ロビーに向かい
その時
警備員が
手荷物検査をしていれば
事件を未然に
防げた可能性もあったが
おらず
その後
61便に
元広島東洋カープの投手で
当時
広島の
JR貨物に勤めていた
経歴から
佐々岡真司さんの
「ササオカ・シンジ」
という偽名を名乗り
持ち込みに成功すると
座席は”75H”
2階席から
5番目に座り
犯行にぶと
機長、男、容疑者の間で
以下の
音声記録データが残されています。
<午前11時38分>
「コックピットから今出るように言っています
えーと単独犯のようです
今、コ・バイ(副操縦士が外に押し出されました)」
<午前11時47分>
「もうすぐ旋回します
あの ここ下 見ていただければ 三浦ですね
えー 横須賀で あれが江の島 見えますか 右手 あそこに江の島が見えますね
今 回りましたね このままにしてますから 大島のほうに向かってますから
南風20ノットですね
陸上の風は強い風ですよ
はい 難しいですよ
管制の方が
大島の後どうするかという風に聞いているんですけど・・・・
横田に向かえばいいってこと
今度大島から横田に行きたいって言って
横田に行っていいよって言ったら・・・・
その右の上に
ちゃんと横田の・・・
あとどのくらいで横田だって出てくるから
それは それはわかります
だから このままでもいいと思います
じゃあ あの管制の方に えー横田に行きたいって言いますね
あとちょっと これ非常に高度が低くて ちょっと もうちょっと上げた方がいいと思うんですよね
大島と・・・こう・・・ まあ雲も出てるし ねえ もうう100フィート(約300m)上げましょう
それで じゃあ 横田の方の距離がわかるようにしますからね
ちょっと揺れてきたから 高度どうでしょうね
上げた方が揺れがおさまると思うんですけど このまんまじゃないとだめですが
こんなこと聞いて怒んないでね
あのー どこかで降りますよね
当たり前ですけどね
あ そのうち指示くるんでしょうけど お昼くらいになってくると どんどんさっきよりも
雲がすごく出てきたでしょう
うん 昨日も一昨日も あの東京 ほら すごく練馬で大雨が降ったでしょう
あれと同じようにあの これから あの もこもこもこもこ白い雲が出てくるから あのー
今日の予報がそうなんですけど
今こうやって いいお天気で見えるから 3000フィート(約900m)で問題ないんだけれども
これからもっともっと雲が出てくると ちょっとだんだん飛べなくなってきて
雲に入って来たりすると 他の飛行機と衝突したりする危険が出てくるから
高度かえるとか あと降りるとか あの しないといけないので それも考えておいて下さい
で 燃料があと2時間 もうないだろうから もうすでにね 40分 50分も経っているから
あれは江の島ですからね 右手に見えるの
ここ 外見といてね
見ていてねと言うのは 厚木とかあるから
他の飛行機もいっぱい飛んでいるから うん ちょっと 危ないから
あと丹沢の山も あそこ 見えてきたでしょ
もうちょっと 本当は1000フィートくらい高度上げていいんですよね」
<午前11時55分ごろ>
「長島機長の悲鳴
以後連絡はなし」
※引用>yabusaka.moo.jp/
長島直之機長の生い立ちについて!
[プロフィール]
名前>長島直之
年齢>51歳(1999年当時)
出身>神奈川県
職業>全日空パイロット(機長)
学歴>立教大学
長島さんは
神奈川県内で
三人兄弟の次男で
小中と過ごした後
高校時代に
将来
パイロットを目指すため
グラインダーの免許を取得後
東京都豊島区の
立教大学へ進学し
1970年7月
全日空に入社すると
1970年以上前
学生時代に
操縦技術の教官を務めた
佐藤一郎さんの紹介で
エールフランス航空の客室乗務員だった
公実子さん(51)と
結婚後
神奈川県横浜市梅が丘の自宅で
長男、長女を含む
4人家族で
とても幸せな
毎日を過ごし
1988年から
ボーイング737
1992年から747の
機長を任され
飛行時間は
一度も事故やトラブルを
起こしたことがない
1万705時間のベテランで
その後は技量や
技術指導を行う
査察室副部長も兼任していたが
何の前触れも
男とは
トラブルもなかったが
1999年7月23日
犠牲者の1人に。